MEMOSHIN

カルメラのピアニスト、パクシンによる日々の出来事をパクシン目線で見たブログ

長島愛生園で歌った話

 
3/28のなんばハッチワンマンが近付いて来てバタバタとした日々を過ごしています。パクシンです。
 
年間100本をゆうに越える数ライブをしていますけど、その中でも特に力の入った公演というものは当然あります。3/28のワンマンはもちろん、4/3の渋谷duoでの自主イベントもそうですし、まだ発表できない先に控えているものもあるし、そういうものには普段来ない人や、お世話になった人たちに是非とも来場して欲しいという想いが強いです。
 
じゃあ普段のライブは手を抜いてるんかい?という話になってしまいそうですが、決してそうじゃないです。どれだけ数が多くても、どんなイベントでも、主催や呼んでもらったかどうかに関係なく、一つ一つに真剣に取り組んでいます。
 
最近、ステージに立って物事を発信するって凄く特別な事なんだなと改めて感じています。『落ち込んでたけど今日ライブを見て凄く元気貰えました!』という声を聞いたりするとやっぱり凄く嬉しくて、ステージの上に立って音楽を発信している自分という人間は、人に何かを与える仕事をしているんだなと思えます。
 

小学校の時に行った長島愛生園

今もこうやって音楽をやっている原点っていくつかあって、この話に繋がる僕の原点が一つあるんですけど、それは小学生時代のはなし。
 
僕の出身保育園の先生が"アジアハウス"という、海外からの留学生を日本語教育と生活の面で支援する団体を主宰していました。その出身保育園の敷地内に留学生を受け入れる寮があるんですが、その寮の1階では学童保育の活動もしていて、両親が自営業だったうちの家の兄妹は土日になるとそこに通わされていました。
 
基本的にそこにいるスタッフの人たちと一緒に、寮にいる各国の留学生さん達が遊び相手になってくれたので、自然と国際色豊かで、積極的に障碍者の子供達も受け入れいたので、その場所は自然と国籍やハンディキャップに関係なく、色々な人が集まる場になっていました。
 
アジアハウス内や保育園の敷地で遊んだり、色んな所に皆んなで出かけたりしたんですけど、ここが普通と違うのは学童保育と並行して"こども劇団"をやっている所。僕たち兄妹含め、お世話になっている子供達は自動的に劇団員となり、演劇や踊り、歌、和太鼓などの練習をさせられました。
 
年に数回発表の場があり、今考えると結構大きな舞台に出たこともあります。色々な場所で講演をしたんですけど、特に思い出に残っているのが小学校高学年の時に行った岡山県は長島愛生園での公演です。
 
長島愛生園という場所は聞き馴染みがないかもしれませんが、ハンセン病という言葉は聞いた事がある人も多いと思います。愛生園は、そんなハンセン病患者の方々の療養施設です。
 
療養施設と言っても小さな島まるまる一つがその敷地。こんな感じです。
 

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愛生園はその昔、政府がハンセン病患者を隔離するために作られた施設です。ハンセン病は当時『らい病』と呼ばれ、不治の病として、政府はハンセン病患者たちをこの地に隔離しました。患者が島から出られないよう、独自の通貨が使用されるほど徹底した隔離政策が敷かれ、とても療養施設とは言えないひどい扱いを患者たちにしていました。後にこのハンセン病は、細菌感染症で感染力が弱いものだと分かり、特効薬が開発されるのですが、隔離政策は依然続き、最終的に、国の法律でそれが解かれたのが1996年。結構な現代やないか…。そういう事なので、収容されていた方々はその頃にはかなり高齢になっていたので、身寄りがなく身体が不自由な中で園外で暮らす事は難しく、そのまま愛生園に住む事を選ぶ方が多いという現状です。
 
僕が来園したのが確か98年。そこにはハンセン病の後遺症を持った高齢の方々が沢山いました。そのうちの一人の方に園内を案内してもらい、資料館を見ながら当時の様子やそれまでの事など、いろいろとお話を聞かせてもらいました。園内を散策してると、子供たちの集団がいる事が珍しいのか、挨拶をしてもどういう反応をしていいか分からないといった感じの方が結構いたのを覚えています。そらこの狭いコミュニティでずっと暮らしてたらそうなるわなぁ。
 
でも、そんな愛生園の公演には、園内の方々が沢山集まってくれました。集落の中にある公民館のような所で、和太鼓や歌や踊り、劇を披露しました。劇は『たつのこたろう』という絵本を元にしたもので、僕は主役の太郎役をしました。めっちゃスパルタ教育された記憶が…
 
色々と出し物がある中、最後に全員で合唱をしたのですが、子供たちの集まり。今考えてもそんなに聞けたものじゃないだろうなぁと思います。何を歌ったのかちゃんと覚えてないんですけど『故郷』を歌ったのだけは覚えています。
 
 
『うーさーぎおーいし かーのーやーまー』
 
 
と歌い始めると、ちょっとだけ騒つく観客の皆さん。気付けば多くの方が一緒に口ずさんでくれていました。気が付くと、鼻をすする音があちこちから。
 
 
 
見ると、涙を流してる方がたくさんいました。
 
 
 
今思うと、それまでの境遇にこの歌の歌詞というのは凄く刺さったんじゃないかなぁと。
 
 
『夢は今も巡りて 忘れがたき故郷』
 
 
今でも夢に出てくるぐらい、忘れることのできない故郷。理不尽な仕打ちで故郷を離れさせられ、ここでずっと生活することを余儀なくされた人たちにとっては、その気持ちを代弁したような歌ですね。
 
とても上手い合唱じゃなかった。多分子供だからご愛嬌っていうレベルの歌だったはず。でも、そこにいた方々には何かを与えたんじゃないかなぁと。
 
僕はこの出来事が印象深過ぎて今でもたまに思い出します。その時は母が同行していたのですが、先日実家に帰ったときにたまたまその話になりました。
 
『上手い下手じゃなくて、その人たちにとって子供たちがその歌を歌ってくれたっていうのがなんか良かったんちゃう。知らんけど。』
 
的なことを言ってたんですけど、理由はどうあれ、僕たちが歌ったことによって、それを見ていた人たちの気持ちを震わせる事ができたんだなと思います。
 
この経験を今でも鮮明に覚えているっていうのはやっぱり自分の中で特別なことであって、これから色んなステージに立って行く上で忘れずに思い出して行きたい。そう思って今日は自分メモ的な意味合いも込めてこの話を書きました。
 
ステージに立つというのは、大きさや見ている人の人数、シチュエーションに関わらず、凄く特別な事で、そこから発信することで、良くも悪くも人に何かを与えられる場所なんだとこの話を思い出すと改めてそう思います。
 
だから毎回のステージは気を抜くことなく、全力で臨みます。
 
 
今日はちょっと重い感じで長くなっちゃったけど、ここまで読んでくれてありがとうございます。アジアハウスと長島愛生園のリンク貼っときますんで興味ある人いれば見てみて下さい。
 
 
 
  
今日は今からリハーサルとミーティング!良いステージを作るために準備も力入れまくります!
 
以上パクシンでした!