時を超えて共鳴した遺伝子
先日、大阪の味園ユニバースで開催された『キャバレーなう!』というイベントに出演しました。
昭和のキャバレーが一日限りの復活というコンセプトで、昔を懐かしんで来場されているお父さん方がちらほらおられたのが印象的でした。
実家に帰りその話をしていると、うちの親父も『若いときはようユニバース行ったわ』と言ってました。
絵に描いたような放蕩息子だった親父。そりゃ、当時全盛期だったユニバースでも遊んでいたに違いないだろうということは容易に想像がつくので、特に驚きもせず生返事をする僕。
『当時のあの姉ちゃんらも、もう70とかなってるんやなぁ…』
急にセンチメンタルな声色でポツリとそう呟き、日本酒をぐいっと飲む親父。
そういえば、ユニバースの楽屋には当時の写真が色々と貼られていました。数々あるモノクロ写真には、その盛況っぷりや楽しそうな雰囲気など、当時の様子が写し出されていました。
そして、当時のホステスさんの写真も何枚かモノクロであったんですけど、それを見て
“こ…これが当時のナウでヤングか…!!"
親父のセンチメンタルな呟きを聞いた後に、先日の写真を見た時こう思ったことを思い出して、やっぱり人に歴史ってあるんやなぁと改めて痛感しました。
間違いなく、親父の青春の1ページがその場にはあったんでしょう。
『ひこちゃん(親父のあだ名)が赤いチャンチャンコ着てミナミのディスコで踊ってた』
こんな噂が近所に立ち、遊び歩いてる事がじいちゃんにバレて半殺しにされるというエピソードを持つ親父にとっては、ユニバースも一つの思い出深い遊び場だったんでしょうね。
そこで甘酸っぱい思い出があったのかもしれないし、親父のことだからナンパに精を出していたかもしれない。もしかしたら、赤いチャンチャンコ着て踊ってたのはこのユニバースかもしれないですね。
赤いチャンチャンコって…
ベストのことやろ…
そう思うと、ベストがかつてチョッキと言われていたそのはるか昔、呼ぶ人にとってはチャンチャンコって言われてた時代だとすると、やっぱりかなり昔の話なんですね。親父は30年以上、下手したら40年近く前やって言ってたし。
どうあれ、親父が今の俺の世代ぐらいの時に、彼にとってよく行く遊び場だったユニバース。おそらく、今でも思い出せるような色々な思い出があるんでしょう。
話は少し離れますが、僕は山下達郎さんが大好きです。
産まれて初めて歌えるようになった曲は、クリスマス・イブです。一円玉の旅ガラスと競うけど。
これは間違いなく父親からの影響です。
親父は山下達郎が大好きで、今でも時折口ずさんだりしています。
聞けば当時から大好きらしく
『ようディスコで踊ったんや』
と言っていました。
話は戻って、先日のキャバレーなう!での出来事。
イベントが終了して徐々に客出しが行われているとき、最後のDJがBGM的に色々な当時の懐メロをたくさんかけていました。
”あぁ良い曲だなぁ”
と思いながら楽器を片付けていたんですけど、そこでいきなり、山下達郎のFUNKY FLUSHIN’という曲が流れました。
ギターのリフから始まるファンキーでダンサブルなナンバー。
小さい時から大好きでたまらない曲!
思わずテンションが上がって、歌詞を口ずさみながらステップを踏んでいました。
ん…待てよ…
今になって考えてみると、うちの親父も当時ここで山下達郎を聞きながら踊っていたのかなぁ。
そう考えると、何だかちょっと不思議な気分になって。
あの片付けのとき、僕がこの曲でステップを踏んだ時、何十年という時を超えて親子の時間が共有されたような、そんな気持ちに今なっています。
もちろん俺は赤いチャンチャンコも着てなければオネエちゃんと一緒にきゃっきゃしてた訳でもないけど。
可能性は低いとしても、本当に親父がここでそうしてたという事実が重要なんじゃなくて、今こうやって父親と息子の不思議な?繋がりを感じられるのが素敵な事だなぁと思えます。
大げさに言うと、遺伝子が震えたような感じかな。いや、何か上手く言えない。
でも何だか言葉で表現しにくいこの出来事をちゃんと記憶に止めようと思って、今日はこのブログを、もちろん山下達郎さんを聞きながら書いています。
やっぱり俺は親父の息子だ。
今度帰ってゆっくり話す機会があれば、なかなか自分の昔話をしない親父にこの話をして色々と聞いてみようか。色んな話が飛び出してきそうで楽しみです。
という訳で以上!パクシンでした!