MEMOSHIN

カルメラのピアニスト、パクシンによる日々の出来事をパクシン目線で見たブログ

親父へ

「父親とは反りが合わない」

 

そう自覚したのはいつからだろう。思春期によく持つ一過性の反発心ではないことに気付いたのは成人してからだった。

 

 何事も理屈で語りたがる自分とは違い、感情的に語るが故にどこか言葉足らずになりがちな父親。正反対のタイプではあるが、プライドが高くカッとしやすい短気な性格は遺伝子によるもののようだ。なかなか素直になれないところも共通しているので遺伝のせいにしてしまおう。

 初めて本気でぶつかり合ったのは僕が中学生のとき。そこからは書き切れないほど色々なことがあった。勘違いされるかもしれないので言っておくが、決して仲は悪くない。むしろ世間と比べ家族仲は良い方だとさえ思う。しかし、父親と息子という関係は親子であれ男と男。特に僕と父の場合は素直に接することが難しく、逆に、素直に接しようとすればするほどぶつかる。
 
 破天荒を地で生きてきた父。自分勝手に振る舞い、幾度となく父親の言動や行動に感情を揺さぶられてきた自分にとって

 

「親父みたいにはなりたくない」

 

そういう気持ちが、生きる上での強固なモチベーションだった。ただ、一方で息子として親に感謝する気持ちも強くある。さすがに30歳も過ぎてくると、良い加減大人になって自分が折れ、父親に歩みよった方が良いというのは分かっていた。頭では分かっているけれど、どうしても出来ない。

 

「お父さんも昔の人やから。あんたの気持ちも分かるけど息子やねんから。」母から何度もそう諭された。分かっている。頭では。でも、自分のとるべき立ち居振る舞いは分かっていても、奥歯に物が詰まったままのようなスッキリとしない感情を拭えずにここまで来た。

 

 先日のGWに久々に電話で父親と話した。
それも母親に即されたから渋々といった感じで、何を話したかもあまり覚えていない。お互いぶっきらぼうに、こちらはなおのこと面倒な感じが態度に出てしまっている感じだったと思う。

 


親父を邪険にした一言

 


それが自分の父親との最後の会話になった。

 


青天の霹靂。
予兆は何もなく、あまりにも急なことだった。
母から一報を受けた時は理解できなかった。

 

「何かの間違いじゃないのか?」
「あんなに元気だったのに?」

 

急いで大阪へ向かった新幹線の中の記憶はもうほとんど思い出せない。
再開を果たした父は、目を閉じて冷たく横たわっていた。


全然理解できない。


『おう。大阪来てたんか。何でや。ライブか?』


と、今にも起きてきてそう言い出しそうなのに。どんなに強く語りかけても目を開けることはなかった。


 そこから数日はまさに怒涛で、喪主として父の送り出しのために家族と力を合わせて数日を過ごした。葬儀を終えようやく帰宅し、改めて荼毘に付された父親を目の前にしたとき、堰き止められていた感情が一気に溢れ出した。


悔しさ、腹立たしさ、今までの思い出、何よりも悲しさ。


何であんなに親父のことを邪険にしていたんだろう。よりによって最後の会話がああなるなんて、分かっていたら言いたいことはいっぱいあったのに。せめてあと数時間だけで良いから、最後に感謝を伝える時間が欲しかった。

 

5/7に父親が急逝しました。
今回、重い話ではありますがブログにアップしようと思ったのは、自分の懺悔と感謝、何より本心を少しでも父に伝えられればと思ったからです。
直接はもう伝えられないけど、父は晩年にiPadを手に入れてから、実はTwitteryoutubeなどでちょくちょく僕の活動をチェックしていたみたいです。多分ブログも見ていたと思う。

いや、絶対見ていた。

見ているくせに見ていないことを装い、その装いがわざとらし過ぎて逆に「いや絶対見てるやん」と周りにバレてしまう、そういう人でした。

親父の魂ならこれを見てくれているだろうと信じて、最後に自分の想いを(ここまでもそうだけど)文章で残します。
伝えたかった事は沢山ある。沢山あり過ぎるから何を言ったらいいか分からないけど、、

言葉ではなかなか伝えられない想いを文章で。人生で最初で最後に書く自分の父親への手紙です。

 

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親父へ

 

あまりにも急過ぎて、何も伝えられなかったことの後悔と腹立たしさで、よりにもよって、葬式の後に「全然良い父親じゃなかった」と吐き捨てるように言ってしまって本当にごめん。あの時はどうかしていました。まだ感情のコントロールが下手な息子を許してください。

親父とは色々あったけど、こんなに人を愛し、人に愛される男を僕は他に知りません。それはほんまに、どんな有名人より親父が一番やで。
誇りに思っています。

色々伝えたいことはあったけど、今はただただ感謝の気持ちでいっぱいです。

思い返せば、色々な思い出が蘇ってきます。


「ちょっとタバコ買いに行ってくる」といって朝帰りしてくる親父。

 

「ご飯できたからお父さん呼んできて」とおかんに言われて、近所の寿司屋まで「お父さん、ご飯出来たで!」と、そこで呑んでいる親父を毎日のように呼びに行っていた幼い日々。たまに食べさせてくれたお寿司の味が忘れられへん。

 

中学に入り僕が反抗期に入って、何度も親父とぶつかったこと。これは高校まで続いたけど、親父に怪我を負わせてしまったのに、周りから「どうしたん!?」と聞かれたときに「ちょっと転んだだけや」と笑ってバレバレの嘘をついてたこと、今だったら僕のことを庇ってくれていたということも分かります。

 

高校に受かったことを誰よりも喜んで親戚や近所中に自慢して、挙げ句の果てに寝言に出てしまうくらい、夢の中まで自慢してくれていたこと。

 

ちょっとだけ警察にお世話になったときに、遠くの警察署まで迎えに来てくれたこともあったやんな。
そこではじめは警察官に頭を下げていたけど、最後には理不尽に対して声を荒げて抗議してた。内心「えー、、」と思ったけど

 

「あかんもんはあかんのはお前も警察も一緒や。例え警察でも、何でも上から言って良いわけちゃう。気分で人の人生左右するようなことしたらあかんねん」

 

って言ってたのが凄く記憶に残ってます。そん時に心の中で「お、親父〜!!」って思ってた。

 

「夜中やしワシしか知らんことやからお母さんには言わんでええぞ」

って言われて、もう一回「お、親父〜!!」ってなった。カッコええなぁと思ったよ。
次の日におかんに

 

「あんた、ええ加減にしときや」

 

とこの件で怒られた時は普通にズッコケたわ。

 

音楽の道に進む事もそんなに何にも言わへんかったやんな。複雑な気持ちがあるのは知ってたけど、応援してくれていたのは分かってる。

 

東京に行くって決めた時も、「男一匹、人生挑戦して来い!」って送り出してくれた。

僕は自分が長男やから家のことで色々と制約を受けると思っていたし、それが嫌で逃げてきたところもいっぱいあった。親父は口や態度では嫌悪感を出してた時もあったけど、基本は許してくれてたやんな。
親父が同じ立場やったから、本当は色々やりたいことや自分の描いた人生はあったのにそれが出来なかったから、自分と同じ想いをさせないようにしてくれたんかなぁと思ってる。感謝してます。

 

まだお金が全然無かった時に
「男は見栄張らなあかん時もあるんや!」って言って2万円を無理矢理僕の財布に入れてくれた。自分も貧乏やのに。
これはありがたく、すぐに後輩との飲み代に遣わせてもらいました。笑
でも親父の望んでる遣い方したで。見栄を張らせてくれてありがとう。

 

結婚式の時はもうほんと親父らしくて、集合時間になってもおらへんと思ったら近くの喫茶店で優雅に珈琲飲んでるし、最後の新郎父の挨拶の時はもうベロベロで「ワシそんなん知らん。やらへん。」って言うし、結局なんとかマイク持ったと思ったらめっちゃ喋るし。
「ああ、俺やっぱ親父の子供やねんな」って思ったわ。
と思ったら最後には失踪してるし、ラストの親族写真撮影の時はみんなバチバチに正装やのに一人だけ私服やし。今思い返しても「何でやねん笑」やわ。ほんと親父らしかった。

 

こそこそライブも見に来てくれてたやんな。
おかんから「次の大阪のライブお父さんが見に行きたいって言ってる。いつか教えてあげて」って何回言われたことか。謎におかん挟んでることが謎やったけど、自分が見に行きたいと思ってるっての知られたくなかったんやろうし、何やったら息子から「お父さん、次この日に大阪でライブあるから良かったら遊びに来てください」って言って欲しかったんやんな。今やから言うで。

 

そんなん言う訳ないやん。笑

 

お父さんに「お前のライブまた見たいから次遊びに行かせてくれや」って言って欲しかった。なんか、やっぱりお互いちょっと意地っ張りなとこ出てしまってたんやんな。僕はそういうところ、ちょっとずつ直していこうとおもいます。

 

「ワシは別に孫産まれても周りみたいに喜んだりはせんと思うわ。そんなに興味ないし。」
っていう無茶苦茶キレイなフリをしてたよね。
自分の孫を初めて抱いたときのおとんのほころんだ顔、忘れへんで。初孫に会わせてあげられて良かったなぁ。

 

最近の僕の活動を見て、仕事が順調にいきはじめていることを毎日のように喜んでくれていたとおかんから聞きました。少しは安心してくれてたんかな?

こうやって書いていくと、まだまだ思い出がいっぱいあるけど、あんなに嫌な事もあったし、あんなに喧嘩もしたのに、今は不思議と楽しかったことやオモロいこと、嬉しかったこと、そして感謝しか出てけえへん。


何でこんなに急に逝ったん。
心残りは色々あるけど、息子は親父に感謝の気持ちを全然伝えられへんかったんが一番の心残りやねん。

でも分かってもおるねん。
仰々しいことや、そういう言葉でのやりとりを敢えて避けて、多くを語らずに粋なことを求めてた人やったから、だからスッと急に旅立ったんやんな。

最強に伝え下手やった親父やけど、今では色んなことが理解できます。
間違いなく親父は

 

「そんなんいちいち言うな!もう分かってるから」

 

って、絶対そう言ってると思う。でも言わせてください。

 


この世に生を授けてくれてありがとう。

 

今まで育ててくれてありがとう。

 

僕のお父さんでいてくれてありがとう。

 

親父は多分「ええ人生やった」って向こうで言ってると思うから、いつか再開した時に「僕もええ人生やったで!」って言えるように、この先を精一杯生きようと思います。

 

親父は波瀾万丈でドラマのような激動の人生を送ってきたから、これでようやく心も体も落ち着けるんとちゃうかな?残された家族の事は心配せんで良いから、ゆっくり休んで、向こうでも親父らしく楽しく粋に過ごしてください。

しばらくは親父のお気に入りの帽子と時計は付けとくから、もし暇な時に気が向いたら僕の仕事の様子覗いてみてな。息子はあなたが思ってるよりも頑張ってるで!

 

いつか向こうでサシ呑みできるのを楽しみにしています。

 

 

今まで本当の本当にありがとう。お父さん、大好きやで。

 

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かなり湿っぽく個人的な内容になってしまったので、これを見てくれている方には申し訳ないです。ご心配をおかけしているなら、それも申し訳ありません。

でも大丈夫です!

 

直後にあった先日の大阪のワンマンライブ、色々な想いがあったけど、成功できて良かった。妹がこっそりと親父の写真を持って観に来てくれていたので

「ワシが死んだら、葬式で流すときに変な音楽はいらん!ビートルズたかじんと、ワッタワンダフルワールドかけてくれ!」

って言っていた親父に向けて、アンコールの最後の曲のソロで「What a Wonderful World」のメロディを1コーラス弾きました。

「かけてくれ!」と言いながら、本当は弾いて欲しかったと思うから。


今回のことで強く思ったこと。

 

「感謝は思っているだけではいけない。
人はいつどうなるかなんて分からないから、日頃から口に出して、相手にしっかりと伝えないといけない。何よりも自分が後悔しないために。」

 

これは父親が最後に僕に教えてくれた事だと思います。こんなに心に深く刻まれる教訓は今まで無かったなぁ。


誰もが直面することだし、いつまでもクヨクヨはしてられないので、しっかりと前を向いて、これまで以上に強い気持ちで、力強く、人生を歩んで行こうと思います!


最後になりましたが、ご心配をおかけした関係各所の皆様、温かいお声を頂いたり助言や力を貸してくださった皆様、特にCalmeraメンバー、チームの皆には本当に感謝しています。

この場を借りて、改めてお礼をさせていただきます。

本当にありがとうございした。

 

皆様、引き続きどうぞよろしくお願い致します!!


2022年5月31日  
PAKshin